鬼が怒ったように氾濫するから鬼怒川ではなかった件
ルネサンス高等学校
鬼が怒ったように氾濫するから鬼怒川ではなかった件
2021-09-10
下野薬師寺跡と道鏡塚を訪ねてみた。
~メディア補講のための取材の旅の記録から ➁
栃木県下野市にある下野薬師寺は、天武天皇持統天皇ご夫妻の治世の7世紀末に、天皇の意向を受けて下毛野朝臣古麻呂(しもつけの の あそんこまろ)が建てたとされる寺です。
現在は、復元された回廊の一部がその名残りを留めているだけです。
そして、
この「下毛野」が、今回のキーワード。
栃木県は古くは下野(しもつけ)国と呼ばれていましたが、古代においては「毛野」という地名があり、その下手のほうだから「下毛野」という名称だったのです。
古代には「毛」の字があったのです。これが「しもつけ」という読みの由来。
それが大宝4年(704)に「国名を2文字とする」と定められたとき、"毛"の文字が抜けたようです。
「毛」の字が消え、音だけ残ったのですね。
以前からなんで「下」の「野」と書いて「しもつけ」と読むのか不思議でしたが、これで納得です。
都(上方)に近い方の群馬県が「毛野」の「上」だから「上野(こうずけ)」というのも "ガッテン!! "
...群馬県には上毛高原という地名もある。こちらの地元では「毛」という文字に愛着があったのかな? ww
ここで、ちょっと気になるのが、「そもそも毛とは ?」ということですが、
「毛」は、穀物(二毛作の毛)・織物(草木)・ケダモノからきている等の諸説があるようです。
これらの中のいずれかが??特長的な地だったのですね。
(参考)「群馬県には"毛"がたくさんある!? 呼称・"上毛"のルーツを探ってみた!」
...
話を下野の方に戻します。
下野薬師寺の歴史については、こちら「下野薬師寺」のHPが分かりやすいと思います。
上の写真の右手にあるのが、六角堂戒壇院。
あの鑑真和上が、日本に三ヶ所設けた正式な僧侶になるための戒律(規則)を授かるところのひとつがここです。
下野薬師寺は、東国の僧侶を担当し、中央戒壇(奈良の國分金光明寺(東大寺)戒壇院)と西戒壇(福岡の観世音寺戒壇院)に対して
「東戒壇」とも呼ばれるスゴイところだったのです。
※ それにしてもなぜ、ココなのかというと、先に述べました 大宝律令の制定(701年)にも深く関わった
下毛野古麻呂という 超エリート官僚がココ出身だったからのようです。
...いつの時代も変わりませんね。
鑑真和上は、聖武天皇の意を酌んで、お経も読めないような僧尼を簡単に増やさないために、僧侶になる儀式「授戒」(じゅかい)を荘重なものに改めるために
延べ12年にわたるり6回もの渡海の挑戦をし、失明してまでやって来られたことは皆さんよくご存じのことと思います。
55歳で決意して以来、日本にやっとの思いで辿り着いた時には、和上は66歳になられていました。
凄まじい生き方に敬服至極です。
お堂は残念ながら改修工事中。
一部ですが、回廊部分が復元されてあります。
「青丹よし~」
※「奈良の都」の枕詞の「青丹によし」の『青』と言うのは寺院や講堂などの建物の、窓のようになっている部分の青い色(実際は緑に見えますが)のこと。
『丹』というのは建物の柱などの、朱色のことを、当時は『丹(に)』と言ったので、そのこと。
つまり、『奈良の都は青と赤で彩られたたくさんの建物があってうつくしく、よい』というのが「青丹よし」の由来なのだそうですよ。
近くに下野薬師寺歴史館があるので、そちらへ。
小さな建物でしたが、史料や映像や復元模型などの視聴覚教材もしっかりしている施設でした。
話が少し重複しますが、発掘調査の結果、出土した瓦が大和川原寺系の八葉複弁蓮華文の軒丸瓦と重弧文軒平瓦とであることからも、
この下野薬師寺は、7世紀末の天武朝の創建であると推定されているのです。
戒壇院のミニ模型
下野薬師寺ときたら、孝謙上皇(重祚したのちは称徳天皇)の寵愛を受け、
天皇の地位を得ようとしたとされる奈良の僧侶道鏡の左遷先としても有名です。
(それにしても何故に左遷先がココなのか、ずっと不思議でした。
...「悔い改めよ」という意味で、戒律(僧として守るべきもの)を試験する所が
選ばれたのかなと思っていましたが、
文官は大宰府へ、僧は戒壇院へと決まっていたようです。なるほどです。)
彼のお墓が近くにあるということなので、そちらにも足を延ばしてみました。
いざ龍興寺へ
このお寺は、聖武天皇の命を受けて三戒壇制定に尽力した鑑真和尚が
天平宝字五年(761)、下野薬師寺の別院として、唐の揚州龍興寺の戒壇の法を移したことにより、
名前が龍興寺(「生雲山龍興寺」)となったとのことです。
薬師寺地蔵院の流れをひく寺院ですが、現在は真言宗智山派の寺院です。
...そういえばルネ高のすぐ裏手にある慈雲寺というお寺も真言宗智山派。ご縁を感じます。
↓こちらが、龍興寺の山門。
これまた、「青丹よし」でお出迎えです。格式を感じます。
...先に述べました通り、一時は天皇の椅子も視野にあったとされる道鏡。
寵愛を受けた称徳天皇が病気で崩御すると失脚し、下野薬師寺別当に左遷され、
死後は一庶民として寂しく葬られたと言いますが、由緒看板にはそれらの表現はなく、
心温かく記されているのが印象的です。
また境内北方には「鑑真和尚碑」として、鑑真和上の弟子(...如宝さんかな?)が
和上の遺徳を偲び、建立したという供養碑が立っていました。
その碑の前の菩提樹(画像左端)は、和上の杖が根付いたものといわれているようです。
※ 史実としては、如宝が、盲目となった和上の名代として下野に来て、
戒壇を設け、龍興寺を開基したようですので、
杖の伝承は、和上が下野まで来られたと誤解されがちなお話ですね。
で、
最後に鬼怒川の由来ですが、
2015(平成27)年9月の関東・東北豪雨による、茨城県常総市を襲った鬼怒川沿いの堤防決壊事故を覚えていらっしゃる方もいると思います。
詳しくはこちら(国土交通省HP)
そのようなこともあり、鬼怒川の由来は、暴れ川から来ているものとばかり思っていましたが、
なんとその由来は、
冒頭に書きました「毛野」の地を流れる川だからなのだそうです。
詳しくはこちら(「鬼が起こっているようだから」は後付 )を。
...「けぬがわ」だったなって、なんかねぇ。


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